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2009年6月

太宰治 〜悪魔のようなあなた〜

もう、ちょっと前の話になるけど、6月19日は桜桃忌(太宰治の命日)だったそうですね。
僕はわりと太宰が好きで、そこそこなファンだと思うけど、そういうのは興味がなくて全然知らなかった。


桜桃忌と言えば、以前から井上ひさしを初めとして色々な作家が、「死後何十年にもなる作家の命日に、毎年老若問わぬ男女が墓前に参る光景は、うらやましいを通り越してちょっと怖い」的なことを書いていたけど、今回は生誕100周年ということで、当日の映像もわりと色々なメディアに取り上げられていた。

そしたらいるわいるわ。
少なく見積もっても、ざっと50人くらいはいたんじゃないかという気がする。
山田風太郎氏が十年前、まさに「悪魔的」と書いた太宰の魅力は今もなお健在なわけだ。

同じ作家といっても(あくまで広い意味で、です。念のため。。。)、僕など死んで1年、いやおそらく当日も話題にならないであろうだけに、こういう状況にはすごく興味がある。。。というか、で、できればあやからせてもらいたいです。


しかし、この現象を取り上げた各メディア、識者の態度には、一貫してひとつの困惑が見られたと思う。
もちろん根底には、いまや大文豪の地位をにおさまった太宰に対する敬意はあるものの、そこには共通して、「今もなお、なぜ太宰治「だけ」が、若者達を捕らえて離さないのか?」という疑問が見えかくれしていた気がする。

確かに、色々な説明がなされたけど、どれももうひとつピンと来ない。
曰く「当時の話し言葉を巧みに語り口に取り入れた」、「人間的に大きな矛盾を抱え、その苦しみを正直に作品に仕上げた」「魔術的と言ってさえいい文章の才能」「だって、育ちが良くてハンサムじゃない?」などなど。。。

でも、実際の所はどうだったのだろう?


太宰に関する文献の中で、僕が個人的に感心したものがひとつある。

それは太宰本人が書いた文章ではなく、最晩年に付き合っていた若手編集者の野原一夫氏がものされた太宰の評伝だったと思う。(野平健一氏だったかな?どちらにせよ、いま手許に書籍がないので、以下の引用は筆者の不確かな記憶によります、すいません)

その中で、太宰は文学に志していた野原氏に、自作の小説の原稿を手渡される。
その場ではすぐにコメントはせず、数日たったある日、太宰は何人かの友人たちとともに、野原氏を飲みに誘う。
そこでえんえん関係ない話をしていた太宰は、ふっと誰にともなく口にする。

「小説を書くっていうのはね、銀座の並木通りの往来を、素っ裸で歩くようなものなんだ。
。。。格好つけてちゃ駄目さ」

野原氏は、この一言が自分に向けられたものであることを瞬時に察し、その場で文学を(一時的に)断念してしまう。

このエピソードは、太宰文学の本質の一端を確実にあらわしているんじゃないかという気がする。
太宰治という人は極めて商業主義的、功利的な一面があったと言われるが、こういう話を読むと、ホントに読者が読みたいものを良く分かっていた人なのだろうと思う。


僕が乏しい作家人生の中で、あちこち頭をぶつけながら思い知った真理のひとつに、「お金をだして本を買ってくれる読者は、きれいごと、か、恥ずかしいこと、この2つのどちらかしか読みたがらない」というのがある。
「きれいごと、と、恥ずかしいこと」は「大義と秘密」と言い換えてもいい。

格好の良い大義を、建て前として信じられない人は、自分の恥ずかしい部分、秘密を作品に描くしかないし、秘密を描くのが恥ずかしい人は、建て前を大義としてどこまでも押し通して行くしかない。
中途半端は論外である。本当に読まれない。
というか、全く相手にされないのである。


太宰は大義や建て前を忌避した。
そうしたしかめつらしいものに、徹底して反抗した。
「如是我聞」の志賀直哉に対する悪口なんて、ほとんどいちゃもんである。しかしそこに大義が、権威が匂うと、黙っていられなかった。

だから徹底して自分のうちに秘めたもの、秘密や恥部を白日にさらし、そのことでどんなに人に迷惑をかけ、自分を傷つけようとも、それを売る道を選んだのである。
そのためにはあえて、「恥の多い人生を送」ることも厭わなかった(太宰の人生を見ると、とても一人の人間が限られた生の間に成し遂げたとは思えない、ろくでもないエピソードのオンパレードである。呆れるのを通り越して感心する)。
最後には自分のだけじゃ足りなくて、他人の秘密(=日記)まで、作品にした。

今さら道を引き返せなかったにしろ、そこまでやったという点に、太宰のユニークさがあるのではないかと思う。
誰だって自分が可愛いし、周囲への外聞もはばかられる。
作家も人の子、なかなかそこまで徹底できるものではないから。

書かれた当時は生々しくて、そこに暴かれた秘密に、恥に、一読して飛び上がるような関係者もたくさんいたことだろう。
その人達のことを思うと、胸が痛む。

しかし、時は全てを洗い流していく。
当時のごたごたなどとは無関係に、僕達の手許に残された太宰とその珠玉の作品群は、永遠の青春小説とその旗手として、語りつがれ、読みつがれていくことであろう。

。。。なんだか不公平みたいだけれど。


ところで、僕は太宰治を映画化するなら、主演は雅楽の東儀秀樹さんしかいないと思うんだけど、皆さんはいかが思われますか?

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コロッケ愛

唐突ですが、皆さんにとって大好物はなんですか?

僕にとって、それはなんといってもコロッケである。
揚げ立てのあつあつコロッケに、ソースをかけた時のあのじゅっという音。
それを箸でさくりとひとくちサイズに割り、ほかほかと湯気をたてるコロッケを頬張る時の、あのなんともいえない幸福感は、ちょっと他のものに代えられない。うーん。

あなたの最後の晩餐は?なんていう質問も良くあるけど、あれも僕にとっては間違いなくコロッケである。
なにも食べ物が喉を通らなくなっても、夏目漱石のワインみたいに、刷毛でコロッケを唇に塗ってもらいたいくらいである。。。無理だけど。
そもそもコロッケも満足に食べられなくなったら、僕にとってはまさに年貢の納め時であると思う。


そんなおおげさな、コロッケなんて庶民的な食べ物ではないですか。。。という向きもあるとは思うが、ああ見えて手作りとなるとなかなか手間がかかる食べ物で、うちなんかでは昔も今も、たまにしか作ってもらえない。
単行本が発売されたり、重版がかかった時など、なにか祝いたいことがあった、特別な場合に限られるのである。


特別な場合といえば、子供の頃のお正月もまたそうであった。

大晦日になると、母親は夜なべをしておせちを。。。ではなくコロッケを作るのである。
それも大量のじゃがいもを買い込み、こしこしとすりつぶし、ミンチとタマネギを細かく刻んだものをじゅうじゅうと中華鍋いっぱいに炒め、それを混ぜ合わせてからせっせせっせと一晩かけて丸め、あとはそのタネを黙々と揚げ続ける。
出来上がる数は少なく見積もっても70〜80個以上はあったと思う。

それを正月3が日、家族や親戚一同にふるまい、みんなではふはふと食べ続けるのである。
うちのコロッケは甘く味付けたりはしない。
あくまでもじゃがいもの自然な甘味をいかし、そこに塩と胡椒で味付けをする。
したがって甘味からくる胸焼けなどなく、割と飽きも来ず、たくさん食べることができる。

だから、僕としてはたまに外で「コロッケ揚げ立て」みたいな看板についふらふらと釣られて、肉屋でコロッケを食べたりすると、甘さに愕然とすることになる。僕にとっては、やはりコロッケはあくまで家庭の味なのである。

しかし、と同時に僕にとってはなにやら晴れがましい気持ちになる食べ物でもある。
お正月、運動会や遠足、夏休みのたまの帰省、単行本発売。。。
僕にとってコロッケは、宿命的に祝祭のイメージと結びついている。
。。。ここまで書いてきて気付いたけど、こういう人って他にいるのかね?


それはともかく、皆さん単行本が出たら「ひとつ田中にコロッケを食べさせてやるか」なんていう気持ちで買ってやってもらえると嬉しいです。

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本庄さんと平井堅さん

友人紹介を間にはさんで、またまたキャラのネーミングについて。
前の更新からずいぶん間が空いているのに、今さら続きもないものだ。。。なんて言わないで下さい。もうちょっとだけ続きます。

さて、作家によっては時として、自分のキャラクターに、あえて個人的に思い出深い名前をつけたりなんてこともある。
それが僕にとっては、「暗号名はBF」の本庄さんである。
なにを隠そう、本庄さんというのは、僕の初恋の人の名前である。
。。。。。といっても小学校1〜2年生の頃だけど。

BFで描くのは、学校生活という、当時の僕にとってはもはや縁遠く、かつ懐かしいものであった。
そこで、当時の気持ちを少しでも思い出すためにも、懐かしさの象徴として、主人公の片思いの相手に本庄さんの名前をつけさせてもらったのである。
こう書くと、なんだかとてつもなく痛い人間みたいですね。いてて。

僕が良く遊んでいた小学校1〜2年の頃は、黒髪がとっても素敵な、育ちのよさそうな、聡明そうな美少女であった。今頃はどこでなにをしておられるのであろうか?


それがその後、思わぬところで名前を聞くところとなった。なんとTVでである。
しかも大好きなダウンタウンの番組、「HEY!HEY!HEY!」のトーク中に、あの平井堅が、高校時代好きになった女の子として、本庄さんの名前を上げていたのだ!

平井堅さんは同じ高校出身の、しかも同窓生の大スターで、当然僕もそのことは知っていた。
だからもちろん、そういう可能性があっても少しもおかしくはないのだけれど。。。これにはやっぱり驚いた。

あんな大スターと、昔同じ女の子を好きになっていたというのも奇縁である。何やら人生というのは我々を不思議な場所へと運んでいくもののようである。


ちなみに高校時代、僕が平井堅氏と言葉をかわしたのはただの一度きりである。

彼がファッション誌の街頭モデルに選ばれたということが全校中のニュースになって、当時(今もだけど)物見高かった僕は、わざわざ見に行ったのである。
話した内容は覚えていないけど、その応対から、非常にシャイで、真面目な人物であるという印象を受けた。
まあいきなり訳の分からないやつが来たことで、とまどっておられただけだと思うけど。

雰囲気は今とは違うけど、やはり当時から目立ってカッコ良かった。
だから僕も覚えていた訳だけれど、向こうはこっちのこと、覚えてないよなあ。。。何せ印象深い顔でなかったことはまず間違いないから。

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友人達

今日は友人達をご紹介します。
僕がブログを始めたと知って、わざわざリンクをはってくれた親切な人達です。

「ババさま耳が痛い」http://blog.togami.moo.jp/
十神真さん
「みるちっく通信」http://ameblo.jp/mirutic/page-1.html#main
明野みるさん

のお二人です。どうもありがとうございます。


十神さんは現在、多方面にてご活躍中の人である。

どのくらい多方面かというと、半年〜1年振りくらいに会う度ごとに、「いま、○○や××や△△で仕事してます!」と、毎回最低3誌くらいの名前が上がる。
その場で言われても、物覚えの悪い僕には、ちょっと覚えきれない。
で、次に会う時にはまた、「そういえば、今どこで仕事してるんでしたっけ?」なんて、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、毎度聞くことになってしまう。
。。。ごめんなさい。今度聞いた時には必ずメモします。
しかしこれではさっぱり宣伝の意味がないな。


明野さんの方は分かりやすく、日本一の少女漫画誌、「ちゃお」一筋の人である。

漫画家が他の漫画家と付き合う時は、だいたい人間的に合うか、仕事の内容が波長が合うか、飲みの場で意気投合なんかしちゃったりして。。。というパターンのどれかなのだけれど、酒の飲めない僕にとっては、主に前の2つということになる。
明野さんの場合は、人間的にも仕事の内容も合うという珍しいパターンだった。
こういうのは僕のような偏狭な人間にとっては、かなり貴重なことである。これからも仲良くして下さい。


それにしても、こんな風にごく当たり前のように僕自身が漫画家として、2人のことを紹介しているとなにやら不思議な心持ちがする。

僕達は、揃って業界に入って下積みが長く、なかなか芽が出なかった。
と同時に、その間多くの才能ある友人知人たちが、漫画界という弱肉強食が前提の過酷な椅子取りゲームに敗れて、志半ばにして去って行く姿を見送ってきた。
そして、それぞれ一度は自分の才能に絶望し、漫画家の道を諦めかけたこともあったはずである。
にもかかわらず、その後もなんとか仕事を得て、とにもかくにも漫画家として生き残っているのだ。

そこに僕はささやかな誇りとともに、不思議な感動を感じる。

感傷と言ってしまえばそれまでなのだけれど、2人に会うといつもなにやら懐かしい気持ちになるのは、お互い過酷な戦いを生き抜いてきたもの同士にしか分からない、ある種の実感を分かちあっているからだと思う。

その実感については、ちょっとひとくちには言えない。
なぜならそれは、本当に本当にきびしい戦いだったからだ。
自分達が生き残れたのが不思議な程に。

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