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太宰治 〜悪魔のようなあなた〜

もう、ちょっと前の話になるけど、6月19日は桜桃忌(太宰治の命日)だったそうですね。
僕はわりと太宰が好きで、そこそこなファンだと思うけど、そういうのは興味がなくて全然知らなかった。


桜桃忌と言えば、以前から井上ひさしを初めとして色々な作家が、「死後何十年にもなる作家の命日に、毎年老若問わぬ男女が墓前に参る光景は、うらやましいを通り越してちょっと怖い」的なことを書いていたけど、今回は生誕100周年ということで、当日の映像もわりと色々なメディアに取り上げられていた。

そしたらいるわいるわ。
少なく見積もっても、ざっと50人くらいはいたんじゃないかという気がする。
山田風太郎氏が十年前、まさに「悪魔的」と書いた太宰の魅力は今もなお健在なわけだ。

同じ作家といっても(あくまで広い意味で、です。念のため。。。)、僕など死んで1年、いやおそらく当日も話題にならないであろうだけに、こういう状況にはすごく興味がある。。。というか、で、できればあやからせてもらいたいです。


しかし、この現象を取り上げた各メディア、識者の態度には、一貫してひとつの困惑が見られたと思う。
もちろん根底には、いまや大文豪の地位をにおさまった太宰に対する敬意はあるものの、そこには共通して、「今もなお、なぜ太宰治「だけ」が、若者達を捕らえて離さないのか?」という疑問が見えかくれしていた気がする。

確かに、色々な説明がなされたけど、どれももうひとつピンと来ない。
曰く「当時の話し言葉を巧みに語り口に取り入れた」、「人間的に大きな矛盾を抱え、その苦しみを正直に作品に仕上げた」「魔術的と言ってさえいい文章の才能」「だって、育ちが良くてハンサムじゃない?」などなど。。。

でも、実際の所はどうだったのだろう?


太宰に関する文献の中で、僕が個人的に感心したものがひとつある。

それは太宰本人が書いた文章ではなく、最晩年に付き合っていた若手編集者の野原一夫氏がものされた太宰の評伝だったと思う。(野平健一氏だったかな?どちらにせよ、いま手許に書籍がないので、以下の引用は筆者の不確かな記憶によります、すいません)

その中で、太宰は文学に志していた野原氏に、自作の小説の原稿を手渡される。
その場ではすぐにコメントはせず、数日たったある日、太宰は何人かの友人たちとともに、野原氏を飲みに誘う。
そこでえんえん関係ない話をしていた太宰は、ふっと誰にともなく口にする。

「小説を書くっていうのはね、銀座の並木通りの往来を、素っ裸で歩くようなものなんだ。
。。。格好つけてちゃ駄目さ」

野原氏は、この一言が自分に向けられたものであることを瞬時に察し、その場で文学を(一時的に)断念してしまう。

このエピソードは、太宰文学の本質の一端を確実にあらわしているんじゃないかという気がする。
太宰治という人は極めて商業主義的、功利的な一面があったと言われるが、こういう話を読むと、ホントに読者が読みたいものを良く分かっていた人なのだろうと思う。


僕が乏しい作家人生の中で、あちこち頭をぶつけながら思い知った真理のひとつに、「お金をだして本を買ってくれる読者は、きれいごと、か、恥ずかしいこと、この2つのどちらかしか読みたがらない」というのがある。
「きれいごと、と、恥ずかしいこと」は「大義と秘密」と言い換えてもいい。

格好の良い大義を、建て前として信じられない人は、自分の恥ずかしい部分、秘密を作品に描くしかないし、秘密を描くのが恥ずかしい人は、建て前を大義としてどこまでも押し通して行くしかない。
中途半端は論外である。本当に読まれない。
というか、全く相手にされないのである。


太宰は大義や建て前を忌避した。
そうしたしかめつらしいものに、徹底して反抗した。
「如是我聞」の志賀直哉に対する悪口なんて、ほとんどいちゃもんである。しかしそこに大義が、権威が匂うと、黙っていられなかった。

だから徹底して自分のうちに秘めたもの、秘密や恥部を白日にさらし、そのことでどんなに人に迷惑をかけ、自分を傷つけようとも、それを売る道を選んだのである。
そのためにはあえて、「恥の多い人生を送」ることも厭わなかった(太宰の人生を見ると、とても一人の人間が限られた生の間に成し遂げたとは思えない、ろくでもないエピソードのオンパレードである。呆れるのを通り越して感心する)。
最後には自分のだけじゃ足りなくて、他人の秘密(=日記)まで、作品にした。

今さら道を引き返せなかったにしろ、そこまでやったという点に、太宰のユニークさがあるのではないかと思う。
誰だって自分が可愛いし、周囲への外聞もはばかられる。
作家も人の子、なかなかそこまで徹底できるものではないから。

書かれた当時は生々しくて、そこに暴かれた秘密に、恥に、一読して飛び上がるような関係者もたくさんいたことだろう。
その人達のことを思うと、胸が痛む。

しかし、時は全てを洗い流していく。
当時のごたごたなどとは無関係に、僕達の手許に残された太宰とその珠玉の作品群は、永遠の青春小説とその旗手として、語りつがれ、読みつがれていくことであろう。

。。。なんだか不公平みたいだけれど。


ところで、僕は太宰治を映画化するなら、主演は雅楽の東儀秀樹さんしかいないと思うんだけど、皆さんはいかが思われますか?

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