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2013年1月

大島渚、あなたは

大島渚は、えらい。

いつの頃からか、そう思っていた。

かつては黒澤明が、映画監督としては1番えらいと思っていた。
いつの頃からか、小林正樹と大島渚が、僕にとってその位置を占めるようになっていた。


小林正樹は、僕が意識したときには既に鬼籍に入っていた、過去の巨匠であった。

大島渚は、違った。
テレビをつければいつだってその笑顔を(怒りを)を振りまいていたし、親が見ている隣で、テレビで初めて「戦場のメリークリスマス」を観た時は、異様な衝撃(としか言いようがない)を受けた。

そして、「御法度」。
封切りの時、劇場で二回観た。
観る度に言い知れぬ感情(感動ではない)を抱いて家路についた。

そして、「儀式」。
レンタルビデオ店で見つけた、この作品を観た時、僕の中で大島渚の存在は不動のものとなった。


僕が魅せられたのは、ストーリーでもなく映像でもなく、まず、その「顔」であった。
そこに映っている、俳優達の顔。

佐藤慶や戸浦六宏といった、はなから異貌の人はひとまずおくとして、津川雅彦、佐々木功、河原崎健三、中村敦夫、藤竜也、ビートたけし、坂本龍一といった、テレビでおなじみのスター達でさえ、他では全く観られない、別の顔をしていた。

彼らはそれぞれ俳優であり、コメディアンであり、歌手であった。
ところが彼らはみな、そうした職業人としての顔を、全て剥ぎ取られて、ただ映画の登場人物として、そこに呆然と立たされていた。
彼らはみな楽しそうではなかった。
しかし、そこには生々しい、虚飾を剥ぎ取られた、一個の生きた人間がいた。


言うまでもなく、映画は作り物である。
そこに生きた人間がいる、と感じること自体がひとつの錯覚である。
しかしそうした印象を観客に抱かしめるほどに、大島渚とその現場は、演じる者に一切のごまかしを許さなかったのだろう。


大島に深く傾倒する僕は、その著作集にまで手を出し始めた。
そこで接した発言、文章から判断して断言するが、大島渚は、間違いなく世界で一番、その存在自体が面白い映画監督の一人である。

多くの映画監督が、ありきたりに撮影現場のエピソードや、スターの人柄なんかを話してお茶を濁すところを、大島は常に自分の全存在をさらけ出し、その政治思想、そして人間観を、感情にまかせて喋りまくっていた。
誰彼構わず、権威には噛み付き、愛する者に対しては、衒いなく褒めまくっていた。

しかし、その一見八方破れに見える発言が、全体を通してみると、不思議なくらい筋が通って感じられた。
感情のままに喋っていることが、筋が通るわけがない。
全部計算なのである。

政治的闘争の現場に身を晒し、そこで常にイニシアチブを握っていた人間とはこれか、とそのしたたかさを目にして、僕は震撼した。
そしてますます大島渚が好きになった。


大島のように、毀誉褒貶の激しい人生をことさら激しく生き、さらに映画監督として撮った作品にもその人間性が露わになっている人間など、おそらく最後だろう。

彼こそは、こそこそした日本の芸能界に忽然と現れ、駆け抜けた一人のますらおと呼ぶにふさわしい。


さようなら、大島渚。

しかしその残した作品は、永遠に僕達を揺り動かし、叱咤激励し続ける。

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